狩人と鬼の子

 中天に月が貼り付いている。
 ぺらりとした満月だ。
 薄雲を侍らせて、晧々とした輝きを大地に落としている。
 丘の天辺にある社は山の陰にならずに、月影を全身に受けていた。
 ぽーん
 鞠をつく音が響く。
 小広い砂利道の真ん中、鳥居の下、敷石の上で、鞠が軽い音を立てる。鞠をついているのは幼い少女だ。
 赤い着物と赤い頭巾、黒い髪。
 無心にぽんと、鞠をつく。
 社の石段を、人が一人、上って来る。男だ。
 男が石段を抜けて砂利道に立っても、童女は気付いた様子が無い。
 ひっそりと立ったままに、男は鞠をつく童女を見つめていた。
 見つめ続けた。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 乱世が満ちていた。
 英雄が生まれ、死に、また生まれ、国が出来て、亡び、また出来る。数十年に渡って乱世は続き、当初の大義など何処へかに失せ、民草は倦み疲れていた。
 倦怠は世に満ち、それは将にも伝わり、数年前のある戦以来、大きな戦は起こらなくなっている。州境での小競り合いは起きるが、大局的には何も変化の無い日が続いていた。人々は、このまま乱世などが終結することを、ただ望んでいた。
 地方では、既に戦の風が凪ぎ、平穏が訪れているのだ。
 日陰という村がある。数多い平穏な村の一つであった。そこに、一人の狩人が居た。
 狩人は三十過ぎの男で、名をヒョウとしていた。元は数年前に日陰にやって来て、居ついた旅人だった。
 この時代、特に、この日陰などの地方の集落は排他的で外の者に狭量なのが常であり、ヒョウが村の道を歩いていても白い目を向けられなくなるまでには、多くの時間が必要だった。
 ヒョウは無口で、顔付きは岩のよう。瞳はひっそりとしていて感情が読めない。余所者で、しかも得体の知れない男と来れば、村人共が警戒して距離を置くのも無理からぬことだっただろう。
 彼が村に受け入れられたのは、山菜取りに山に潜った女が狐に噛まれて、大怪我をして戻って来た時だった。女の足は、傷口から悪い気が入って真っ赤に膨れ上がっていた。
 この村には医者は居ない。女の家族や村人達が途方に暮れていたところに、ヒョウが家を訪れたのだ。彼は村人達を押しのけると、女の傷を調べ始めた。家族はそれを止めようとしたが、思い直し、この余所者に託してみることにした。
 ヒョウは僅かに顔を顰めると、家族の者に湯を沸かすように言った。
 湯で傷口を丹念に洗うと、彼は懐を探って印籠を取り、中から脂肪の塊のような軟膏を出すと、指で押し付けるようにして傷に塗ったくったのだ。女は既に痛みと熱で失神していた為に、一連の作業の中で暴れ出すことは無かった。全ての傷に塗り終わることには、一塊もあった軟膏は半分になっていた。
 出来るだけ清潔な布を使ってきつく傷口を縛ると、ヒョウは、終わった、と言い、七日が経つまで包帯を外さないように告げると、女の家を出て行った。
 女の家族達が見守る中で、七日が経った。
 家族が恐る恐る布を取ると、そこにはすっかり化膿が引き、大半の傷が治った健康な足があった。この一件で、ヒョウは村人達に受け入れられたのだった。
 この村で彼が選んだ職業は、狩人だった。弓を引き、罠を仕掛け、獲物を捕る。何をどう求めたところで、彼はそのような生業しかできない男であった。
 ところで、この日陰村は二つの山に囲まれている。東に一つ、西に一つ。この為に、朝日と夕日がこの村を訪れることは無く、そこから日陰村の名が付いたのだ。
 東の山は日当山と呼ばれ、山菜の類が豊富で村の生計を成り立たせる上で重要な山だった。対して西の山は鬼飛び山と呼ばれており、獣が多く棲む。だが、その名前の通りに、村の言い伝えで、この山には鬼が住んでいるとされており、村の狩人はこの山の麓より先には入ろうとしなかった。
 ヒョウは、しかしそのような伝説と恐怖とは無縁だった。彼は単純に、鬼飛び山についての、入ってはいけないということだけを聞いていた為に従っていたのだが、立ち入りがならないのがその伝説故だと言われるのを最近になって知り、それから、奥にまで潜るようになった。
 
 今日も、ヒョウは朝早くに村を出立して、一匹の猟犬を連れて鬼飛び山に入っていた。
 この山は奇妙な形をしていて、麓からある程度までは比較的緩やかなのだが、途中で突然、険しくなる。極端に傾斜が高くなり、急に樹と樹の間隔も詰まり、道と呼べるものも無くなる。無論、獣道はあるが、それも細く、気楽に歩けるものではない。この辺りが、村の猟師が訪れるぎりぎりの場所である。そしてここまでは、それほど多くの獣はいない。
 ヒョウは大した苦労も見せず、獣道を登っていく。耳を澄ませ、息を潜めながら。
 暦の上ではもう夏の真中であるが、風はまだ初夏のそれに近い。気温も、肌が僅かに汗ばむ程度だ。
 途中で木々の隙間、茂みの中に、透かすような視線を送る。先日仕掛けておいた罠を確認しているのだ。この辺りに仕掛けたのは、木の枝と縄を利用した、跳ね罠と呼ばれる捕縛用の簡素な罠だ。どれも作動していなかった。
 警戒されているか。
 呟き、ヒョウは、猟犬が鼻をひくつかせて調べている地面の辺りを見た。
 罠の周囲、土が剥き出しになった辺りに、点々と足跡が付いている。大きさと形から狼のものと知れた。罠もその周囲も煙で燻して人の臭いは消しておいたのだが、あの鼻の利く獣達のこと、彼の臭いの痕跡を嗅ぎ付け、近寄らなかったのだろう。
 とりあえず罠はそのまま残して置き、ヒョウは先へ進んだ。そのうち、泉にたどり着く。水場には何かしらの獲物がいるものだ。捕りすぎれば獣は寄らなくなるために、そこまで頻繁に利用することは出来ないのだが。
 弦を外した弓を、矢を確認する。木と牛皮、骨で造った弓だ。鹿程度ならば、この弓の一矢で仕留められる自信がヒョウにはあった。地面に痕跡を落とさないようにしながら、歩みを重ねる。
 半刻も歩いた頃、森の切れ目に辿り着いた視線をやると、木々の列が薄くなっているのが見える。その奥はやや平坦な広場になっており、その中心に泉があるのだ。その広場が見えるか見えないかの処まできたとき、猟犬が鼻をひくつかせながら、顔を上げた。
 森を抜けた先、泉の傍に獣がいるのだろう。ヒョウは頷いて弓を手に取った。矢を一本手挟んで弦に番え、身を屈め、気配を殺して、じりじりと泉に近付いていく。幸い、この位置は泉に向かって風下だ。小さな物音ならば獲物には届かない。
 進みながらヒョウは注意を地面にやる。労せず、幾つかの獣の足跡が見付けられた。鹿のものだ。周囲の草の中にも鹿に踏み潰され、倒れているものがある。
 視界が開ける。
 森に囲まれた広場に清澄な水がたたえられた泉がある。その脇に、鳶色に白い斑の模様。美しい毛皮の鹿が佇み、首を伸ばして水を飲んでいた。予想通りだった。だが、その周囲の光景は意外であった。
 鹿の脇に、赤い着物の子供が寄り添っている。八つを数えるくらいの童女だ。草の上に座り込んでおり、その煤けた赤い着物から、ほっそりとした白い手足が伸びている。素足の足首には鈴の付いた赤い紐。髪は黒く艶やかで、小さな、やはり赤い頭巾で結われている。傍らで仔鹿が二匹、じゃれ付くように鼻先で童女の頬を突付いている。
 ヒョウは驚き、弓を下ろす。猟犬が反応して吠え声を上げる。
 鹿たちが泡を食って逃げ出す。

ちりん

 童女は一歩遅れて驚いて、走り出す。それを見て、
「いかん」
 ヒョウも慌ててその後を追った。
 童女が逃げていった方には、多く、獣の通り道がある。ヒョウは特に重点的に罠を仕掛けていたのだ。幼子がそれに掛かれば、大事は免れまい。
「娘、そっちに行くんじゃない」
 木々と茂みをすり抜けて追う。追いながらヒョウは驚いていた。窮屈そうな服装の子供が鈴を鳴らしながら、山林を歩き慣れた狩人に劣らずに走る。木の根を飛び越え、潜り抜けて。ヒョウは舌打ちし、走るのには邪魔になっていた腰にぶら下げていた矢筒を捨て、弓を捨てた。猟犬は待機させていた。童女にけし掛ければ確かにその足を止められるだろうが、無傷で、とはいくまい。彼はあの犬に、噛まずに獲物を捕らえる訓練など施していないのだ。
 一気に速度を上げて走り、童女の背中まで数歩という距離まで来た時、

ちりん

 必死に走る童女のその背中がぐらりと揺れる。ヒョウは追いつき、半ば追い越してしまいながら、童女がつまずいた原因を見る。その足が小汚い縄に取られている。見覚えのある代物に彼は顔を強張らせた。
(この辺りには、弩を仕掛けた)
 弩とは、弦を引き絞った状態で固定し、そして発射する弓だ。外から伝わってきた武器で、威力が高く狙いが付けやすいのが特徴だ。彼が作り、仕掛けた物は本来の弩のような上等なものではない。木の板に鋲を打って、弓矢を固定しただけの簡単な物だ。だが、それでも殺傷力は充分にある。

びん

 刹那の間に、ヒョウは引き絞られた弦が弾ける音を聴く。聴いたときには既に地面を蹴っていた。童女を抱き、かかえながら地面に倒れたヒョウは、露に濡れた草の臭いと冷たさ、柔らかな着物の感触、矢が身を引き裂く灼熱を、同時に感じた。
「は」
 吐息と共に、意識が吐き出されていく。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 自分が夢の中にいることを、彼は自覚していた。
 何故なら、彼が敬愛する主君が、その理知的な眼差しで自分を見ることなど最早ないということを知っていたからだ。既に焼け落ちている筈の主の居城、居室で、こうして二人で向かい合い、話をするなど、夢でしかあり得ない。
 だが、どうやらこの自分はそのことを知らないらしい。冷めた視線を、彼は自分に注いだ。これは、何年前のことだろう。馬丁の頃にその実直な気質を見込まれて第一の側近となってから、何年が過ぎた頃だっただろう。少なくとも、この時はまだ、自分は三十を数えてはいなかったはずだ。ヒョウは記憶の霧を探りながら、目の前で広がっていく夢を見続けた――。

「兵吾助、この書状、どう取る」
 主君が手渡した書状はつい今しがた、彼の主君、島津秀寿の義兄にして敵である柴田宗則から届いたものだった。其処には、『過去を忘れた盟を望む。会談を催したい』という旨の文章が並んでいた。書状を丸め、秀寿の手に戻しながら、
「柴田の罠でございましょう。殿を彼奴の謀に陥れる算段かと」
 兵吾助は決め付け、秀寿は笑う。
「理由を訊こう」
「我らの力を彼奴が恐れたということが無ければでございますが、和睦の理由が、柴田には無いこと。それが理由でございます」
「彼我の戦力差に加えて、宗則がわしの妹を妻としているということの縁、では足りぬか」
「今更になってそのような理由で盟を持ち掛けるような殊勝な男でございましたら、我らはとうに盟友となっていたでしょうな。その書状は山羊にでも喰わせてしまえば良いかと存じます」
「お前の口は、常に容赦とは無縁だな」
「それをこそ、殿が我が身に求めておられるのだと心得ておりますゆえ」
 兵吾助は続けた。
「柴田の、村民に対する私掠の数々。我々には、怒りと恨みならばともかく、好意など、一片たりとも抱く理由はございませぬ」
「ふむ」
 秀寿は顎に伸びた髭を触り、暫く黙ってから言った。
「しかしな、兵吾助」
「は」
「わしは、これを受けようと思う」
 兵吾助は驚いて主君の顔を見つめた。秀寿は蝋燭の明かりに瞳の色を揺らめかせている。
「天下は大きいな、兵吾助。途方も無く大きい」
 兵吾助は黙って、続きを待った。
「それが亀の甲羅のように割れたのは、何年前だ。この乱世が始まってから、どれほどになる」
「五十余年でございます」
「それを、わしは戦って来た。兵卒から始まり、将となり、この州の牧となり、天下の半ばを統一するに至った」
「殿の他の如何なるものにも真似出来ぬ覇業でございます。天下は、間近でございましょう」
「かも知れぬ。だが、そうでもないかも知れぬ。我が勢力は多くの州を呑み込んで来た故に、多種多様な土とその民を纏めて抱えてしまっている。対して、我が宿敵、西の名門、福田宗治の結束は並ではない」
 今、天下はほぼ三分されている。島津、福田、その他の諸州。諸州の中で特に力の強いのが柴田である。
「天、地はともかく、人の利は彼奴等にあると見て良いだろう」
 兵吾助は表情を歪めて主に向かった。
「何を気弱なことを仰せられます。ここで、柴田のようなものに賭けてどうなさるというのです」
「柴田の戦力は、侮れぬ。特にこの状況ではな。彼奴等を味方に付ける事が出来れば、均衡は大きく我らに傾くのだ。逆に、出来ねば、戦況はますますの泥沼だ。そなたが理解できぬ筈があるまい。民草は、これ以上の戦に耐え切れぬ。疲れ切っているのだ」
「しかし、危険でございましょう」
「無論、背中から斬られようとは思わぬ。会談の際には、兵吾助、警護全般、おまえに任せたぞ」
「は」
 主君が既にこうと決めてしまえば、彼には何をか言わんや。ただ従い、秀寿の身を護り、秀寿の敵を討つ為に刀を振るうだけだ。

 そして、その、この時の想いを、幾度、奥歯を噛み締め、血を流しながら悔やんだ事か。

――光景がかすれていく。主君の姿形が暗闇の中へと沈み、意識の沼の中へと消えていく。半ば覚醒した意識が、その先に手を伸ばす。伸ばす。
 手は届かない。夢は掌中の水のように、零れていく。ふわと漂うような心地に包まれたまま、静かに流される。
その後は、延々と、闇だ。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 締め切られた部屋に届く鳥のさえずりが、感覚を突き刺す。
 ヒョウはおもむろに目を開けた。というより、努力しながら、少しずつ力を込めて、ゆっくりと瞼をこじ開けた。全身に痺れがある。起き上がろうとしてみたが、半身を押し上げたところで力尽きて、布団の上に倒れた。同時に、激痛が走る。
(何処だ)
 ぼんやりと霧に包まれたように見え、室内のその様子が判然としない。じっと意識を凝らしていると、その視界もはっきりとして来た。部屋は細長く、四角い。四畳ほどの大きさ。調度品などは無く、物を入れていないときの納屋のような趣だ。
 その中心に敷かれている布団の上に、彼は横たわっていた。震える手で、左の脇腹にあるらしい、じくじくと痛みを訴える矢傷を探ってみる。深く、鈍く、尾を引く痛みだ。出血は止まっているようだし、きちんとした手当てもなされているようだ。
 あの罠に矢毒などは使用していなかったが、あのまま放置されていたら死は免れなかっただろう。ヒョウは嘆息した。
(あの娘の家だろうか)
 少なくとも、此処は日陰村では無いはずだ。空気の味が、山中のそれである。
(家族でも呼んで、おれを運んで来たのか)
 それで、手当てをしてくれたのだろう。
 一連の動作で力を使い果たした身体は、彼に動くことを許さなかった。痛みが小さくなっていくのを待ちながら、ただぼんやりと考えに耽っていたヒョウは、部屋の戸がすいと引かれるのに気が付いた。
 少しばかり腰の曲がった女が入って来る。五十絡みで、髪の半分ほどが白い。女は手に盆を乗せていた。音が、その中に水がたたえられていることを示す。
 ヒョウの傍らに屈み込んだ女は、始めから彼が目を覚ましていることが分かっていたかのようだった。
「お身体の具合は如何でしょうか、猟師様」
 ヒョウは口を開く。が、声が出ない。かすれた息を吐くばかりのヒョウを女は制した。
「多量に血を流したゆえ、喉が涸れ切っているのでしょう。ご無理をなさらずに」
 女はヒョウの包帯を取り、手当をし直すと、最後に軟膏を塗り、真新しい包帯を巻きつけた。ヒョウの持っていた薬だ。
「勝手に使わせていただいたのですが、宜しかったでしょうか」
 ヒョウに否やは無い。薬など、使わねば意味が無いのだ。死んでしまえば、全ては屑にもならない。
 それが終えると、女は盆の上から急須を取り、湯飲みに注いだ。香りが流れて来る。どうやら薬湯のようだ。
「巨勝と桂です。傷と失血、痛みに効きます」
 説明してから女は皺を帯びた手を伸ばし、ヒョウの上半身を支えるようにして持ち上げた。湯飲みを取り、口元に持って来る。ヒョウは何とか身体を動かして嚥下する。
女は満足したように頷き、
「また参ります、ゆっくりお眠りくださいませ」
 部屋を抜けていった。
 それから暫く経つ。ヒョウの意識が朦朧として来た。世界が閉ざされていく。身体が眠りを欲しているようだ。
 抗う理由は無い。ヒョウは瞼を下ろし、眠りに身を委ねた。

 また、夢を見た。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 同盟の為の会談は、島津秀寿と柴田宗則の州境、柴田の治める安城で行われることとなった。場所を提案したのは柴田である。兵吾助は疑念を覚えたが、断る正当な理由が見つからなかった。
 会談といっても、その実は宴会である。酒と食事で互いの心を和ませ、しこりを取るのだ。この場合、柴田が主催者となって宴を仕切る。兵吾助は、信頼できる何人かに、秀寿の毒見役を命じた。加えて、国境周辺の城に置いた軍を臨戦状態に置く。何がしかの異変が起きた場合、即座に動員できるようにだ。そして、会談の場に同行する護衛兵は自身で選出した五百名。盟の宴にあまり多くの兵を連れていくのは無作法であるが、「何者が、我らが和を結ぶことを妨害するかも知れぬゆえ」との口上を立てた。
 同時に、密偵を動かし、柴田側の調査を行わせる。報告には全て、異常無しとあった。安城周辺の、目立った軍備の変化は無い。周辺の諸州にも不穏な動きは無く、安定している。元々、季節は秋だ。収穫に伴い、戦も小休止といったところだろう。戻って来た密偵たちに、兵吾助は引き続けて偵察を命じた。
 これで、一通りの準備は終わった。
 その、準備が終わった日の、夜だ。

 兵吾助は、物音に振り返る。
「殿」
「詩想でも沸いたか」
 そう言ってやって来る主君に、兵吾助は腰掛けていた石橋の欄干から降りて、向かった。
 此処は島津の本拠、栄城の庭園の竹林だ。中には細い川が流れており、石橋が設えてある。川の水は近くの河川から引いて来たもので、清らかに流れている。水面が、魚鱗のような輝きで、月の光を照り返していた。
「わたしには、殿のような詩藻の才などありませぬ。涼んでいただけです」
 先程その光を見ながら、自分の主君ならばこの光景に唄でも朗ずるのだろうと思ったので、そんな言葉が出た。
「わしの詩藻の種は戦だ。大してありがたいものでもない」
 兵吾助の脇に並んで、秀寿は天を指差した。
「ほれ、あそこには何が見える」
「三日月ですが」
「わしには弓に見える」
 兵吾助は主君を見た。彼は、冗談を言っているのだと思った。
「竹を見れば槍に見える」
 続けて、秀寿は、ふふと笑った。
「病だろう、戦のな」
 主君は、空を見ている。
「病は、出来るだけ早い内に治したいものだ、他のものに広がる前にな」
「秀寿様」
「でなければ、夜も良く眠れぬ」
 秀寿は兵吾助の顔を見、もう一度空を見て、歩き出した。
「秋の夜は長い。月が消えるまでに唄の一つでも詠んで見たらどうだ」
 その後姿が、月の影の下に消えていく。兵吾助は顔を上げた。良く晴れた夜空に、月だ。
 主君にか、その月にか、届くつもりで呟く。
「わたしには、殿のような詩藻の才など」

  ◆□◆□◆□◆□◆

 ヒョウは、ゆっくりと目を覚ました。気だるい眠気が全身に満ちているが、痺れは弱まっていた。痛みも少ない。あの薬湯が効いたのだろうと思った。身体に力を入れてみると、何とか上体を起こすことが出来たが、眩暈が湧き上がる。吐息を洩らしながら、前に倒れこむ。吐き気がした。
 落ち着くまで暫くその体勢のままで待ち、それから身体を戻した。
(傷から悪い風でも入ったかもしれんな)
 体調は最悪のようだった。
 天井を見つめながら、自分が連れていた猟犬のことを思い出す。あの犬には太助という名をつけていた。大原を巡っていたときに拾った犬だった。生まれて間もないのに親も主も無く、一匹で道端に横たわっていたのだ。近付いて来たヒョウに無感動な視線を向け、身じろぎもしなかった仔犬だった。気が付いたら拾い、餌を与えていた。
(おれと共に、此処に連れて来られたのならいいが)

 その後、ヒョウは高熱を出し、昏睡状態に陥った。傷口は少しの化膿もしていなかったので、たんに身体の衰弱が病を呼んだのだろう。その間、夢を見る体力も無かったらしい。朦朧とした、泥の沼めいた意識の中で時を過ごしていたのだけが記憶にあった。ヒョウはたまに目覚めたとき、ずっと、隣に誰かがいたような気がしていた。
 もしかすると、夢を見ずに済んだのはその気配のおかげかもしれない。
 久しく、人の気配を、微睡みの側に感じたことがなかった。

 その覚醒は速やかだった。
 鳥と風のざわめきに、引き摺られるのではなく導かれるようにして目覚めた。ヒョウはゆっくりと、腕を上げてみる。痺れも無く、意思と身体の連携がまともに行えているようだった。脇腹の傷に気を付けながら身体を起こす。恐れていたような痛みは無かった。包帯越しに触ってみても、あの鋭い痛みは走らない。
「塞がったか」
 呟いて、声も正常に出ることに気が付いた。
 
「お目覚めになられましたか」
 ヒョウが自分の身体の状態を確認し終えた頃に、女が入って来た。
 先日も見た盆を持っている。そして、見覚えのある童女を伴っていた。布団の横に盆を置いた女に、ヒョウは訊ねる。
「どのくらい眠っていたのだ」
「七晩です。傷も大体塞がったようですね」
 老女は改まって、座り直した。
「わたくしは船と申します。この娘は」
 背中に隠れるようにしていた童女の促し、前にやる。
「菊と申します」
 猟師様のお名前を伺っても、と、言いかけた船を遮って、ヒョウが口を開いた。
「ヒョウと言う」
 ヒョウ様。呟くようにして繰り返すと、船は、床に手を付いて頭を下げた。菊もぎこちないながら、それに従う。
「この度は、この菊が大変なお世話になりました。お詫びと言う訳ではありませんが、心を込めてお世話をさせていただきますゆえ、どうぞよろしくお願いいたします」
 ヒョウはやや気圧されるような素振りを見せる。
「元々、自身が仕掛けた罠だ」
 それが獣以外のものを掛けたので助けただけであり、礼を言われることではない。ヒョウは言ったが、船は首を振る。
「いずれにしても、ヒョウ様が一族の恩人と言うことに変わりはありません」
「気にすることではない」
「そうは参りません」
 しかし、と続けようとしたヒョウは、ふと気がついて、船に問う。
「おれがその娘御を救ったのが、一族に関わるのか」
 言って、船の傍らの菊を見やる。菊は、彼女の左手側、部屋の奥の方を見ている。その視線の先にいた白い色をしたねずみが、軽い足音を立てて走り出す。彼女の前を過ぎていこうとしたねずみに、菊は猫のように素早く、手の平を落とした。か細い鳴き声を上げて、白ねずみは捉えられた。尾の先を指で抓んで、逆さにしてぶら下げる。
 船は、ねずみとじゃれている菊を見、ヒョウに頷いた。
「この菊は、我らの一族の最後なのです」
 最後とは。その言葉の意味をヒョウは視線で問う。
 船は首を振る。
「申し訳ありませんが」
「そうか」
 話せないというのなら、ヒョウにも訊く気はなかった。
「ならば、別のことを訊こう」
「どうぞ、何事でも」
「この山中には、他に誰がいるのだ。まさか、女だけ二人で住んでいる訳ではあるまい」
「いえ」
 船は再び、首を振る。
「この菊とわたくしの二人だけでございます」
「なに」
「わたくしが幼い頃は、少なくとも十人はおりましたでしょうか。しかし、皆、死んでしまいました。以前は立派な村であったのでございますが、今は、その屍に過ぎません」
「流行病か何かでか」
「そのようなものです」
「そうか」
 船は薬湯の湯飲みを差し出した。先日と違う味の湯を飲み干す。船は空の湯飲みを受け取ると、一礼をした。
「わたくしは、食事の用意を致します。菊を置いていきますので、御用があればお申し付けください」
 また頭を下げて、それから立ち上がる。促すように、ねずみを弄んでいる菊の頭に手を載せる。菊は船を見上げて、頷いた。
 戸が閉まる。灯りは無いが、今は窓が開けられているために、光に困ることは無い。部屋には軽い静寂が満ちた。音を鳴らすのは風と、鳥と、白ねずみだけだ。
 さぁ、と、風が吹き入って来た。
「娘」
 菊は顔をヒョウに向ける。ちらりと一瞥すると、すぐに戻した。ヒョウは怪訝そうな顔をしてから、ふと、言い直す。
「菊」
 今度は、確かに菊は、ヒョウに向かった。
「おれが連れていた犬を、知らないか」
 船に訊き忘れていたことを、尋ねる。菊は暫し首を傾げてから頷き、ねずみを袂に仕舞い込みながら立ち上がった。
 ちりん ちりん
 鈴を鳴らしながら、部屋を抜けていく。そして、戻って来たときには、傍らに太助を連れていた。布団に上体を起こしたヒョウを見つけた太助は尾をばたつかせ、吠えるような、鼻を鳴らすような声を上げながら全身で飛び付こうとする。それを、菊が両手で肩を抑えて止めた。
 ヒョウはほう、と息を吐く。太助の馬力は、そう簡単に童女に抑えられるようなものではない筈だ。この七日の間に手なずけたのだろうか。
 菊は、ゆっくりと、太助と共に近付いていく。ヒョウの元に辿り着く頃には太助の興奮は落ち着いていた。鼻を付けて、確認するように臭いを嗅いでいく。ひとしきり嗅ぎ、身体を擦りつけると、太助はヒョウの脇の床に腹這いになった。ゆらゆらと尾が動いている。菊は頷き、再びヒョウの近くに座して、何時の間にか首に輪がはめられた白ねずみを弄び始める。その大きな黒い眼は、無言のままだ。
 この奇妙な童女をヒョウは黙って眺めやっていたが、催促するような太助の眼差しに気が付くと、苦笑を浮かべて向き直り、その背中を撫でてやった。

 翌日、ヒョウは菊に伴われて、初めてこの家の外に出た。
 伴われてというが、別に支えてもらっているわけでも案内してもらっているわけでもない。身体はそこここの筋肉が萎えていたが、それでも誰の力も借りずに歩くことは出来た。
 夏の日差しが強く、弱った身体に眩暈を誘うが、風は冷やりとしていて心地よい。山の風だった。ヒョウは、とつ、とつ、と歩を散らす。
「村の屍。死んだ村か」
 先日の船の言葉を思いだす。それは確かな喩えだと思った。
 家の数は多かった。確かに以前は、多くの人が住んでいたのだろう。ざっと視線を巡らせただけで十数軒が目に入る。手入れもされずにぼうぼうと草が生え、蔦を纏って風雨に朽ちた、古びた家々だ。通りには人間の生活の気配など皆無で、人工的な空間の中に、それが強い違和感を覚えさせた。
 前を太助が進む。尾を振りたて、主人を気遣うように振り返りながら。
 後ろから菊がついて来る。無言で、肩の上に座っている白ねずみと、太助と、ヒョウとを見比べるようにしながら歩いている。何も知らないような、それとも何もかも知っているような、赤子の表情をしていた。
 誰も語らない。
 ヒョウは声を掛けない。菊も口をきかない――口をきけないのかもしれない――。
 だから、ここには沈黙だけがあった。土を踏み、蹴る音、衣擦れの音、風のゆく音、木の葉のざわめく音、時折、鳥の声。ひとの声はしない。音が冴え冴えと抜けていく。
 不快ではない。
 ただ、その空気が、昔、主とよくいった散策の時と酷似して、胸の辺りから身体がねじれていくような想いをかきたてた。
 幾度も繰り返して、そして久しく見なかった夢が原因だろう。心があのひとの従者だった時代に戻っているのだ。兵吾助は、秀寿に伴われて、よく山野に出かけた。狩りのためではない。「療養のようなものだ」と秀寿は言った。その言葉の意味するところを、兵吾助は、あの三日月の夜にはじめて悟った。
 見上げた空が、同じ色をしていて、不快だった。夏の昼に、秋の澄んだ夜空が見える。
 吸い込まれるように心は帰る。幾度も繰り返した過去がまた巡る。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 宴はつつがなく始まり、つつがなく終わった。
 島津秀寿の兵士たちの緊張は酒と音曲でほぐされ、つい今朝方まで仇敵と睨んでいた柴田勢の面々と陽気に杯を交わした。兵吾助が、宴に心の糸を緩めさせぬようにと厳命していた彼らだった。それを簡単に懐柔してみせた柴田勢の手腕は実に見事だった。
 秀寿と宗則はならんで言葉をかわし、兵吾助は、鈴木由之助という宗則の側近と共にその傍に控えていた。
 彼と話しながら、兵吾助は、この宴のお膳立てをしたのはこの男ではないかと思った。年若い兵吾助よりもまだ若い。二十を過ぎた程度で、精は満ち才気迸る瞳の若者だった。
 宴も終わり、城内に室を与えられ、兵士と彼と主君は夜を過ごしていた。秀寿の部屋に、兵吾助と、久留間という古株の武将が訪れた。
「懸念に過ぎましたな」
 酒を啜りながら久留間が呟く。兵吾助はそれに対して首をかしげながら、由之助の、時折思案気に光る瞳を思い返した。柴田よりもむしろあの若者にこそ、兵吾助は注意すべきではないかと思う。
 兵吾助は秀寿に面を向けた。彼らの主君は何事かを考えながら、一言たりとも発しない。
 沈黙を繕うように久留間が口を開く。
「しかし、冬姫どのがご病気というのは残念でしたな」
 冬姫とは宗則に嫁いだ、秀寿の年の離れた妹のことだった。
「本当にご病気なのかは怪しいものです。彼奴の策謀を妹君が秀寿さまに伝えるのを阻止するため、宴の席に出さなかったのかもしれませぬ」
「たとえ柴田が、真実、策謀をめぐらせており、それに気が付いたとしても、冬はそれをわしに知らせたりせぬ」
 そう、秀寿が言う。
「夫には貞淑さを以って仕え、出すぎた真似はせぬ。男勝りという言葉とは無縁の妹だ。苦悩しながらも行動は起こすまい。今ごろひとりで詩文のひとつでも編んでいるのであろうよ」
 そのようなところばかりがわしと同じなのだ。むしろ楽しそうな表情の秀寿に、兵吾助はなんとも言えない。
「そうとは限りますまい」
 と、返したかったのだが、心では秀寿の言葉に頷いていたのだ。そこで、久留間が話を変える。やけにもったいぶった口調で、
「ときに兵吾助殿。あの男、鈴木なる側近は一体、何者であろうかな。おれは天下の武将の名はそのほとんどを諳んじたと自負しておるが、彼の名は聞いたことが無い。彼の者の若輩ゆえに、噂がこの耳に届かぬだけかもしれぬが」
 耳をつまんで見せる久留間に兵吾助は笑みを洩らしながら、
「その名が久留間殿の大きな耳に届かなかったのも仕方ありますまい。何しろ、昨年末に仕官したばかりの男ですからな」
「ほう。そのような若輩が」
「おれも思いました。若輩と。されど、若輩ながらなかなか底知れぬ男で。どうとはいえませぬが、いやあな緊張が走る、不気味な奴です」
 そうでなければ陣営に加わったばかりの男が主君の側近に侍っていよう筈も無い。
「それは、殿と駒を交わしているときのようなものですかな」
 冗談めかしていわれた久留間の言葉に兵吾助は乗って見せた。
「右と見せて左から、左と見せて右から駒を動かし、裏を読めばその裏を掻き、上と見ればその斜め上をいく、あの、こちらは考えるほど袋小路に陥る寸法でござるな。まさしくそのような趣で」
「あれは蟻地獄でござるなあ。すると、由之助とやらは相当な難敵でしょうな。宗則に、我らにとって相当意地の悪い献策をして、散々こちらを悩ませるに違いない」
 家臣たちの冗談に主君は闊達に笑った。それではわしが日頃からいやあな男のようではないか。
「これはしたり」兵吾助は大袈裟に驚いてみせ、久留間が両手を振って答える。
「いやいや、間違って敵に仕えてなくてよかったと感謝するばかりでござるよ」
 笑い声を主従は交わす。
 仇敵の地にあって、そのときは確かに穏やかだった。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 ヒョウは身体が癒え次第すぐにでもこの山を降りようと思っていたが、治りかけては崩し、また治りかけてと繰り返している間に、幾日かが過ぎた。
 それほど身体が衰えたとは思わなかったが、と、主君に従って戦場を駆けたあのときと比べれば衰えもしているだろう、と、数日の間にやけに細った足に触れながら自嘲気味に思う。
 家の縁側に腰掛け、遠くに、白ねずみと戯れる太助と菊とを眺める。猟犬ばかりか野良ねずみまで、あの口を聞かない童女に懐いてしまったようだ。
 
 夕餉の席でヒョウは、この山の名前について船に訊いた。
「この山は鬼が棲む故に“鬼飛び山”というそうだが」
 船はヒョウの湯飲みに茶を注ぐ手を止めた。見返す表情に、怪訝も拒否もない。静かに作業を再開しながら、言葉の続きを待っているかのようだ。だから、ヒョウは率直に疑問を述べた。
「山に入り、出会うものは獣。遭うかとみれば女ふたりだけ。有るのは朽ちた村の家々。跋扈する鬼の姿など影も無い。ならば何故にそのような説話が流れるようになったのだ。よもや、その嫗と童女が鬼というわけではないのであろう」
 船はしばらく答えなかった。ヒョウの言葉が壁にでも吸い込まれていってしまい、その耳には届かなかったとでもいうかのように。彼は辛抱強く待った。食事を続け、茶碗にあった最後の米の一粒を箸先ですくって口に放り込んだ時、ようやく、
「確かに、この山には鬼の一族が棲んでいたのでございます」
 と船が応えを返した。そうか。ヒョウは頷く。
「動物どもと意思を交わし、木々の言葉を聴く。一代にして人の三代を見届け、さらに、どのような獣も負かせるほどの力。その異能はまさに鬼と呼ぶべき代物だったと聞きます」
「ふむ。おれが知っているような鬼とは一線を画しているようだな。どうにも、そちらの鬼は大人しそうでならぬ。そのような鬼が実在するのなら、会ってみたかったものだな」
 船が、空になった碗に茶を注いだ。ヒョウは、それを箸でかき混ぜる。
「けれど、滅びました。故に、この山はもはや鬼飛びの山と称されるに値しませぬ」
「そうか。何故滅んだのだ。そのような異能の才を持つならば狩猟にも畑仕事にも難儀する事もあるまい。外敵もなく、安泰ではないか」
「さあ、わたくしにはどうとは」
 船はヒョウの方を見ないまま続ける。
「鬼どもの一族が滅んだのは百年も昔のことだとか。麓の村人はここには来ませんし、この村のものもみないなくなってしまいました。そのあなたさまのお言葉に答えられるものなど、もはやおりますまい」
 それで、その話は終わった。

  ◆□◆□◆□◆□◆

「けっきょく、盟を結ばれてしまわれたな」
 宴の翌日、帰り支度を整えているとき、不満げな声で久留間にいったのは、親衛隊長の三島だった。彼は、苦々しい表情で、土を繰り返し踏んでみせる。彼の傍らにある馬が、相棒の所作に鼻を鳴らす。
「殿に従って十余年。まさか柴田と手を結ぶ日が来るとは思いませなんだ」
「ここへきて不平を鳴らしてもしようがありますまい」
「まったく、兵吾助殿、お恨みしますぞ」
「自分とて不本意なこと。なれど。いくら憎んでも飽きたらぬ宗則といえども、その勢力は中々侮れず、盟友となる道があるのならば、そちらを選んだほうが良いのは間違いのない道理。そもそも、殿の本意は負けないことでも勝つことでもなく、まして仇敵を討つことでもなく、戦乱を終わらせることあるのですぞ」
 自分の言葉に三島が不承不承ながら納得していくのをみながら、兵吾助は考える。
 三島が不満を表すのは、柴田と結ばずとも天下を制することができると思っているからだ。ならば、柴田がまたそう思ってもおかしくないのではないか。今更になって盟を求めて来たのは、柴田が翻心したからではなく、仇敵を手っ取り早く倒すためにだまし討ちにしようとしているからではないか。それを兵吾助は柴田からこの盟の使者が送られて来たときから考慮していた。だからこそ、精鋭ばかりを集めて、三島や久留間その他の有能な将を随伴して来たのだ。
「どうなされた、兵吾助殿」
「いや」
 兵吾助は頭を振って疑念を打ち消した。いったん盟を結んでしまった以上、“天下の手前”宗則はこの秀寿の一群を攻撃することはできない。諸州に、宗則への攻撃の大義名分を与えることになる。裏切りが裏切りを呼ぶこの時代と言えども、むしろ、だからこそ、約定というものは重く見られているのだ。そのため、宗則がこちらを騙し討ちにしようとするならば、盟を結ぶ以前でなければならない。そう考えていたからこそ、兵吾助はこの宗則の城までを細心の警戒を以って往った。
 秀寿を打ち倒すための宗則の策は空振りしたのだ。

 後になって思うと、このとき、兵吾助は自分に思い込ませるためにこそ、考えを練っていたかのようだった。
「戦乱を終わらせる」
 秀寿と宗則が盟友となれば、天下の趨勢は彼らの元へ大きく傾く。そうすれば、天下を平らげるまでほんの一段を上がるだけになるのだ。忠義ぶりと知略とを秀寿に見出されて、それを戦乱の中で磨いて来た兵吾助なのに、ほんの一滴の願望が加わっただけで、慧眼は曇った。曇らせたものは焦りだとか、疲れだとかだった。
 人は信じたいものばかりを信じてしまうもので、彼の、それまで念頭にあった疑念だとか不安だとかは、些細なこととして意識の片隅に追いやられていた。そのことを、そして彼の心理を、敵対者はよく理解し、読んでいたのだ。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 実際のところ、ヒョウはそのことに感づいていた。彼女も、特に強くは隠そうとしていなかったように思える。船の世話になり始めてから明日で三十日を迎える。それまでに、幾つもの手掛かりが転がっていた。船の話、菊の所作。それらがあって、少しでも考えてついてもみないほうが奇妙というものだった。といって、ヒョウは別にそのことに対して言及しようとは思わなかった。それを拒否されているように感じたこともあったし、ヒョウ自身、それが別にどうでもいいことだったからだ。

「長く世話になってしまったな」
「お構いなく。命の恩とはこの程度でお返しできるものではございませぬ」
「それこそ構わぬというのに」
「でしたら、助けると思っておいでくださりませ。人がいるほうが、子供には良うございます」
 ヒョウは、月明かりの差し込んで来る窓を、見るとはなしに見た。
「それを望むというのなら、当面、山を降りることは考えるまい。おれのほうこそ、あなたに恩を受けたのだからな」
 船は無言のまま、手を付いて深く礼をすると、部屋を出ていった。彼女に支度された寝床があとに残されている。ヒョウはいったんは布団に潜ったものの、寝付けず、一刻ほどのちにけっきょく部屋を抜けていった。
 外を、ひとり歩く。
 その夜に月はなく、雲がかって、星もない。ようやく歩きなれた道を、ややぎこちないながらも危なげはなく進む。

ぽーん

 ヒョウが向かっていた方から、軽い音が聞こえた。
 三戸の空家を過ぎて、四戸目を右へいったところは小さく開いて、墓場になっている。そこをさらに越えると、小さな丘がある。丘には石段が敷かれ、そこを登ると、やはり小さな鳥居があった。
 小さな鳥居の周囲には二十ほどの数の墓がある。

「やはりここにいたか」
 鳥居の下、幾つもの墓に囲まれて、太助を伴って、菊がそこで鞠をついていた。
 ここ数日、菊がここで鞠をつかない日はなかった。
「菊」
 呼ぶと、童女は顔だけを向けて、彼を見る。その手は休めず、それ以上ヒョウが言葉を発しないのを確かめてから、また視線も戻す。ヒョウは墓から少しはなれた場所に立つ木に背中を預けた。
 
 ぽーん

 何もいわず、見ている間に雲が晴れた。隙間から、弓のように反り返った三日月が現れる。ヒョウは見上げ、ひとつ頭を振り、足元にやってきていた太助を見下ろし、そして菊を見た。

 てん   てん  てん てん

 菊は、鞠をつく手を止めてヒョウを見ていた。支えを失った鞠が、小さく跳ねながら転がっていく。
 三日月を瞳に映して、童女はヒョウを見つめている。ヒョウは彼女に歩み寄り、太助が取って来た鞠を手渡す。頷きかけると、菊はまた鞠をつき始めた。
「おれは」
 口を開き、閉じる。また開く。
「菊、おれは、いたほうがよいか」
 童女は頷いたようだった。

 ぽーん

  ◆□◆□◆□◆□◆

 兵吾助は血が滲むほどに歯を食いしばりながら、馬を駆っていた。
 五百の隊が左右に切り立った崖を通りかかったときに、崖の一部が崩れ、土砂が一向に襲い掛かった。それを見た瞬間、
「うつけめ!」
 彼は己の過ちを悟った。
 往きに秀寿が襲われ倒されれば、たとえ手を下したのが宗則でなくても、非難は宗則にゆかずにはいるまい。管理の不慮を責められ、また、自分の陣地に誘い込んで騙し討ちにしたといわれるのだ。
 むしろ帰途でこそ。宗則が秀寿を襲う利は、帰途でこそあるのだ。彼らを包囲し、襲撃をかける。盟が無事結ばれた事で油断し、警戒の緩んでいる彼らを――それもたったの五百を――鏖殺することなど容易いことだ。その上で、別の適当な勢力にその罪をなすりつける。秀寿の“盟友”が秀寿を殺そうとするはずがないのだから、秀寿を殺した犯人は別にいるに違いないのだ。
 そして、その勢力に復讐を宣告し、その大義を以て、秀久亡き後の領地を纏め上げる。
 秀寿の妹を妻とする宗則は、つまり、彼の弟だ。後継者たり得るのだ。
 一瞬の自失から覚めると、兵吾助はすぐさま自分のやらねばならないことを思い出した。沸き立つ兵士たちを叱咤すると、馬を飛び降りた。武器も投げ捨てて土砂に飛びつき、登りやすいところを選んでそれを駆け上がっていく。彼の主君は、この土砂の向こう側にいるのだ。
「兵吾助殿に続け」と、誰かの言葉が背中越しに聞こえる。その次の瞬間、後方で、突如として怒号と悲鳴があがる。後方の森の中から、次々と敵の騎兵が現れ、襲い掛かって来る。頭上から、投石と矢玉が降り注いで来る。兵吾助は腕で頭部を庇いながら、脇目も振らずに駆け出した。岩を乗り越え、彼を狙って来た矢を振り払い、土砂の頂上まで登ると、一気に滑り降りた。
 既にしてそこは修羅場となっていた。岩と土に潰され、矢に射抜かれて、幾人もの精鋭たちが血溜まりに伏している。兵吾助は勢いを止めずに、また駆け出した。崖を抜けた先は、小広い荒地になっている。敵と味方が入り乱れ、そこここで血と生命を惜しげもなく散らしている。
 彼が地面に転がっていた死体の手から槍を取ったとき、敵の騎兵が彼に気が付いたらしく、馬を走らせて来る。彼を馬蹄に引っ掛けるつもりなのか、速度を緩めずに真っ直ぐ向かって来た。
 兵吾助はすれ違い様に横に転がりながら槍を投じる。槍は騎兵の胸甲に吸い込まれ、敵は落馬し、動かなくなる。兵吾助は敵の身体から槍を引き抜きながら、乗り手を失った馬に飛び乗り、また駆け出す。
 そこで、溜めていた言葉を一気に吐き出した。
「殿おぉ!」
 片腕で急所を庇い、片腕で槍を振り回し、両足で馬を御しながら。一心不乱に兵吾助は戦場を走った。射放たれた矢よりも迷いのない動きだ。襲い掛かって来る敵兵を突き倒し、薙ぎ払い、東へと向かう。この先には森がある。
 秀寿が考えることは、すぐにも、彼にも思い付く。
 寡兵で大軍に抗するためには、敵の動きを阻害する必要がある。敵の襲撃隊は騎兵ばかりで、身軽な歩兵はいない。ならば、森に逃げ込んで身を隠し、その後、散り散りになって逃亡する!
 周囲の空気は、確かに西から東へと動いていく。今、兵吾助の周囲には味方の姿は全くない。敵の隊の中に姿を紛らわせながら、その動きに身を任せていく。正面から、激しい戦いの音が聞こえる。
 森を手前にして戦う十五騎の中に、兵吾助は踊りこんだ。三騎が味方で、残りが敵だ。兵吾助は槍を振り回し、加勢する。
「ご無事か、久留間殿ッ」
「おお、おぬしこそ」
 久留間は三騎を相手に、押すことは出来ぬものの、押されずにいた。兵吾助が参加したことで均衡が崩れ、瞬く間に三騎は冥土へ送られた。
「殿は」「森の中へ」
 一瞬の間に言葉を交わすと、兵吾助は森の中へ、久留間は逆の方向へ、また数騎、兵をを増した敵に向かっていった。お互いに、それぞれの役目は分かっていた。
 森の中で兵吾助は仲間たちと再開した。ほとんどが、言葉を発する事もできなくなっていた。
 兵吾助は前方に見えた三つの騎影を追いかけ、追いつき、無言のままに襲い掛かった。後ろから近付いていった自分を味方だと思い込んでいた敵兵は三騎とも、抵抗らしい抵抗もできずに打ち倒される。
 道なき道を、兵吾助は、配下とともに敵兵から逃れる秀寿の心になって進んだ。自分の殿ならばこちらへいく。右へ、左へ。
「どこへいかれる、兵吾助殿」
 叩き付けるような鋭い声とともに蹄の響きが後ろから迫る。早い。兵吾助は振り向き、振り向きながら槍を振るい、振り下ろされて来た矛を弾く。
「邪魔立てするな、狐」
「吠えるな忠犬。いくら急げとも、もはや間に合わんよ」
 鈴木由之助は笑みを閃かせ、馬を急がせる兵吾助にぴたりとくっついていく。兵吾助は馬の操作に専念する事ができない。乗り手の意思が遮断されて、馬は気ままに走ろうとする。兵吾助は歯噛みする。
「面白いほどよく罠にかかってくれて、仕掛け人冥利に尽きるというものだ、兵吾助殿。天下に名の聞こえる島津秀寿も他愛のないことだな」
 挑発するような由之助に、兵吾助は逆に冷静になった。わざわざ自分にかかずらうということは、つまり彼らは、秀寿を見付けてはいないということだ。既に秀寿を捕らえ、殺しているのならば、ただの敗残兵である自分など、森を包囲した上で火を掛ければそれで済むのだから。主君を虜囚としていないからこそ、この策士がわざわざ森に入り込んでいるのだし、彼について来るのだ。
 いったん冷静になれば、兵吾助の頭脳はよく冴える。
「若僧が知恵者ぶってよく動いたものだな。だが、いざ戦場にあってはものの虚実も見えなくなるようだ」
「なに」
「いい気になって、我らを追い詰めた気になっている、道化者め。お前が森を出たときには殿は既に城へとたどり着いて、部隊を組んでこちらへと向かっているところだろうさ。囮、冥利に尽きるというものだ」
 さきほどの由之助の言葉を真似て、兵吾助は轟然とした声で言い放った。よく聞けば、兵吾助の言葉と行動に整合性はない。だが、由之助は彼の勢いに呑まれ、その言葉を信じてしまった。今度、冷静さ共に判断力を失ったのは由之助だった。
 慌てて馬首を返そうとした彼に、兵吾助の槍が翻って襲い掛かる。その瞬間を狙い済ました一撃は、この男を鞍上から叩き落し、同時にその未来を奪い去った。地面に落ちる由之助の亡骸には目もくれず、兵吾助はまた馬を走らせた。

 森の中に流れる川を渡り、木々の間を抜けて、兵吾助は確かに自分が主君の下に近付いていることを確信する。その確信を与えたのが、親衛隊長である三島の亡骸であったのは皮肉なことだったが。
 そして、そのすぐ先の繁みを抜けたところで、甲高い金属音に兵吾助は身を振るわせた。
 たどり着いた。
 不安を押し殺し、強いて戦意に心を高めながら、兵吾助は馬を早めた。
 鼻腔を突く草いきれも、耳元を掠めていく枝葉も無視して、最後の繁みを飛び越えた。

 次の瞬間、見えたものは一枚一枚の絵でしかなかった。

 それは地面に横たわる主君の愛馬であり、血に塗れて地面に蹲る彼の主君の姿であり、それを中心にした敵兵の囲いであり。今まさに切り落とされるその首であり。首を無くした身体が噴き上げる血の奔流であったりした。
 記憶はそこで途絶えている。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 ヒョウは、再び高熱に倒れた。
 高熱の中、自我の九分を手放した中で、ヒョウは過去の世界と現在の世界が溶け合うのを意識した。
 自分を構成するもっとも大きなものであった主君の命が失われた瞬間、兵吾助の全てが虚空へと変じていた。
 そのはずだったが、何故か彼は敵と戦い、主君の首を奪い返し、槍を振るってその囲みを突き破り、戦場から逃れた。
 主君の首を火にかけて灰としてしまったのも、その主君の領内に戻らなかったのも、また、自害して果てなかったのも。何か考えがあってしていたわけではなかった。何も考えずに、ただ、歩いていただけだった。彼が兵吾助という名前を捨てたのは、同じくあの戦場を生き延びた久留間が秀寿の城へと辿り付き、兵を纏め上げて、瞬く間に柴田宗則の勢力を殲滅したそのときだった。一兵卒に至るまで自発的に喪章をつけて主君の復讐を果たした軍の強さと苛烈さは、自身が評価していた以上の人望が秀寿にあったことを示していた。その復讐が遂げられたとき、今度こそ兵吾助は、何も感じられなくなったと思った。自分という生物が存在しなくなったと思った。
 それでも、ヒョウという名前を自分に与えて、彼は生き続けた。名の中に、兵吾助も生き続けた。
「特に何かがしたかったわけではない」
 声にならない声でヒョウは誰にともなく呟いた。悔しかっただけだ。
 彼を生かしたのはその悔しさだけだった。
 大陸中のどこを廻っても、それは消えなかった。
 なぜなら、見つけられなかったからだ。

 ヒョウはそこで意識を手放した。
 手放す寸前に、自分を覗き込む誰かの顔を見たような気がした。
 その誰かの顔の奥の、さらに遠くで、誰かが呼んでいるような気がした。
 船のようにも菊のようにも秀寿のようにも、自分自身のようにも見えた。

  ◆□◆□◆□◆□◆

「……」
 ヒョウは、朝の声とともに目覚めた。起き上がる。身体の動きは滑らかだった。
 首を傾げて、戸口を開けて部屋を出る。
 
 ぽーん

 菊が、地面に鞠をつきながら立っている。無言で立ちどまるヒョウに、やはり無言で、菊が鞠を手に向き直った。
 菊はゆっくりとした動きで、普段、船と菊が使用している家屋を示した。そのとき菊の着物の襟口から白ねずみが抜け出して、地面に飛び降りた。そのまま走っていくねずみのあとを追いながら、菊はもう一度ヒョウの顔を見て、それから走っていった。
振り返らない。

 ヒョウは、家の中に入っていった。
 戸を開けると、そこでは船が正座して彼を待っていた。
「どうしたのだ」
 おそらくは船がしてくれていた看護の礼を言うのも忘れて、ヒョウは驚きの声を上げた。もともとあまり血色がいいとはいえなかった船の顔色はさらに白く、その下が透けて見えるようだった。
 船は、ヒョウの言葉には応じず、ただ、口を開いた。
「わたくしは、もう、すぐに冥土へと旅立ちます」
 あまりに唐突なその台詞に、ヒョウは唖然とした。
「菊のことをお願いします」
「待て、どうしたというのだ」
「あなたさまもお気づきの通り、わたくしたちが鬼の一族です」
 時間がないのです。そうヒョウを制して、船は続けた。
「以前、お話したように、鬼の一族は生物として一番優れていました。知恵を持たないものと会話し、生命を操る術も持ちました。ただ絶対的に数が少なかったため、この山の中に隠れ住み、幾百年の平穏を過ごしました。なかには人里に降りて人を惑わしたり、また、助けたりするものもおりましたが、数えるほどもおりませんでした」
 船は、そうして、話し始めた。
「鬼は、彼ら自身も覚えていないほどの昔から生きていました。その生のほとんどを、気が遠くなるほどの時間を、この山の中でだけで過ごし、朽ちていく。稀に子供が産まれるものの、それ以外は何も変わらない歴史を繰り返してきました。そして、いつのころからでしょうか。みな、飽きてしまったのです。以前から、百年を生きたものはみな、生きることに飽きました。けれど、百歳を数える前に、果ては、生まれたばかりの子どもでさえ、生きるということに執着しなくなったのです。
 わたくしの父は、種としての寿命が来たのだといいました。わたくしにそういって、父もいきました。
 執着をなくしながらも、生物として優れた能力をそのまま殺すのは勿体無いと考えるものもいました。生命を操る術を以って、医者として、人助けでもしてみようと、山を降りるものがいました。彼は数ヶ月後に帰ってきて、そのまま倒れました。
 そのときには、もはや、わたくしたちは生命を操る力を失っていました。その力を使えば、逆に自らの寿命がなくなるようになったのです。理由はわかりません。彼は間際に『生きる気のないものが何かを生かすことはできない』といいましたが。
 みな、次々と村を出ていきました。一族として二百年ぶりに子供を身ごもっていた、わたくしだけが残りました。みな、帰っては来ませんでした。
 わたくしは、恐らく自分の子も無為に死ぬのだろうと思いながらも、その子を産みました。悔しかったのです。ひとりで、わたくしは女子を産み、育てました。
 死のうとは思わなかったわたくしから生まれたその子は、みなとは違い、生への執着は薄いものの、皆無ではありませんでした。鬼は子供に花の名をつけることはしません。けれどわたくしは、その子にその名をつけました。わたくしは、愛するということを知りました」
 最後のほうでは、その声は擦れがちになった。だが船はその身体を微動だにさせない。ヒョウは圧倒されたまま、言葉が出ない。
「けれど、その子を生んだ時には既にわたくしは百歳を数えていました。もともと残り少ない寿命で、その子を産むことでさらに、大きく命を縮めました。平穏に過ぎていく日々の中で、焦燥感は強くなるばかりでした。
 あなたさまが、あの子に連れられて来たのはそんなときでした」
 彼女は悩んだ。悩みながらも決めていた。
「あなたさまなら、引き受けてくれることをわたくしは分かっておりました。あなたさまになら託せるということを、わたくしは分かっておりました。あの子を、菊のことを、引き受けてくださいませ。あの子は子供なのです。ひとりでは生きられませぬ。あの子は、わたくしの子供なのです」
 船は、床に両手をついて、頭を下げた。
 ヒョウは、黙っていた。
 無責任なことばかりいうな、と、言おうとした。
 おれとて生きる意欲などないのだ、と、言おうとした。
 おれはただの人間だ。鬼の子を守れるものか。頭に過ぎったどの言葉も、彼は口にすることはできなかった。いや、実は、そのつもりもなかった。
 
「引き受けよう」

 頷いてから、気がついた。

  ◆□◆□◆□◆□◆

 中天に月が貼り付いている。
 ぺらりとした満月だ。
 薄雲を侍らせて、晧々とした輝きを大地に落としている。
 丘の天辺にある社は山の陰にならずに、月影を全身に受けていた。
 ぽーん
 鞠をつく音が響く。
 小広い砂利道の真ん中、鳥居の下、敷石の上で、鞠が軽い音を立てる。鞠をついているのは幼い少女だ。
 赤い着物と赤い頭巾、黒い髪。
 無心にぽんと、鞠をつく。
 社の石段を、人が一人、上って来る。男だ。
 男が石段を抜けて砂利道に立っても、童女は気付いた様子が無い。
 ひっそりと立ったままに、男は鞠をつく童女を見つめていた。
 見つめ続けた。
「菊」
 童女は振り返らない。ただ、懐から白ねずみが顔を出してその肩まで這い登り、首を傾げてヒョウを見返した。ヒョウについてやって来た太助が彼を追い越し、菊の足元までいく。地面に座り込んで、振り返る。
 そして、菊が振り返る。


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